冈迫亘弘 Okasako Nobuhiro
漫画家を目指していたが、東映映画部の興行部長を務めていた伯父の誘いを受け、1958年に東映動画(現:東映アニメーション)に入社。『かっぱのぱあ太郎』や『白蛇伝』など同社の初期作品に携わった。 その後、手塚治虫が『西遊記』の制作に参加したことをきっかけに虫プロダクションへ移籍。『鉄腕アトム』に携わった後、虫プロの下請け会社としてVEFプロダクションを設立して『W3』を手がけたが、虫プロの経営悪化によりVEFプロダクションも解散してフリーとなる。その後、1987年には作画スタジオ「スタジオ・ヴィクトリー」を設立し、同社の代表に就任した。 1970年代は実写特撮作品にもキャラクターデザイナーとして参加したことがある。『正義を愛する者 月光仮面』に参加したことをきっかけに、同じ川内康範原作の実写特撮作品『レインボーマン』や『ダイヤモンド・アイ』のキャラクターデザインを担当。その後も『月光仮面』などの萬年社から東宝の『流星人間ゾーン』、日活の『電撃!!ストラダ5』などの実写特撮作品のキャラクターデザインも担当した。 東映に入社した時の年齢は中学校を卒業する前の15歳であったため、会社側から16歳と詐称するよう指示されていた。同期は芸大卒業者や漫画家経験者などであったため、岡迫は縁故採用であろうと理解していた。 デビュー直後は漫画家を目指していたこともあり、仕事のかたわら貸本漫画も描いていた。 虫プロダクションへ移籍する際には、伯父を説得して将来性のある手塚治虫の下で働くことに理解を得られたが、東映社内からは裏切り者として扱われ、懲戒免職相当となった。このことを手塚に相談したところ、東映の退職金分も支払ってくれたという。 テレビアニメ『愛の戦士レインボーマン』を監督したのは、特撮版に参加していたことから原作者の川内康範による指名を受けてのことであった。岡迫は当時土田プロダクションに所属していたため、個人としては受けられないと川内に伝えたところ、土田プロを経由しての発注となった。