山田达雄 Tatsuo Yamada
新東宝では井上梅次の下のポジションで、赤坂長義や土居通芳が山田に続いている。嵐寛寿郎とは京都時代からの旧知で、アラカンの後押しで並木鏡太郎監督に代わって台頭。アラカンにしてみると渡辺邦男や並木に対しては「監督さん」という態度だったが、山田に対しては「達ちゃん」と呼ぶ間柄だった。 『檜山大騒動』で監督に抜擢されるが、このとき山田は34、5歳で、看板スタアのA級作品を担当するには異例の若さだった。当時、新東宝は東宝から脱退したばかりで、市川崑や加戸野五郎のほかに監督の間が開いており、また大蔵貢社長の企画第一主義もあって他社よりも早い監督昇進となったのである。 アラカンによると、山田はなかなかの俊才で、仕事の段取りが実に早かったという。新東宝は予算が渋く、若手にもゼニを使わせないとのことで、予算も撮影日数もギリギリのなか、「安かろう早かろう」で監督が評価されていた。この不自由な中、一所懸命に工夫する、ここが腕の見せ所という意味で新東宝には「名監督」がたくさんいて、山田もその一人だったと語っている。アラカンは新東宝で山田監督と組んで12本の映画を撮ったが、アラカンにとってこれは山中貞雄以来のことだった。昭和34年には一年で5本、山田と映画を撮っている。 相馬大作事件を描いた『檜山大騒動』は10月末の撮影だったが、相馬大作役の当時五十になるアラカンは吹き替えなしで潜水シーンを撮っている。警視庁が協力し、水中のアラカンの周りを実弾で撃ち、水泳の得意なアラカンが水面に上がって大きくあえぐ勇壮な場面となった。これには山田監督も大喜びだったという。 アラカンは山田作品では『風雲天満動乱』、『危し! 伊達六十二万石』、『鍔鳴り三剣豪]』なども「ええシャシンです」と語っているが、新東宝という会社柄、年間ベスト・テンに絡むこともなかった。寛プロ時代に山中貞雄を見出した岸松雄のような批評家もおらず、「新東宝かB級や、娯楽作品やと差別してジャーナリストも試写に来なかった」として、この監督の才能を惜しんでいる。