山内久司 Hisashi Yamanouchi

联合创作 · 2023-11-18 06:52

テレビプロデューサー、朝日放送顧問。元朝日放送ドラマ部門チーフプロデューサー担当。  来歴・人物 大阪市西区出身。1955年京都大学 文学部文学科卒業後に朝日放送に入社。同期に植草貞夫、澤田隆治、槇洋介がいる。1960年代には脚本家の佐々木守とのコンビによる『お荷物小荷物』を始めとする一連の“脱ドラマ”を、1970年代前半から1980年代にかけては必殺シリーズを世に送り出した。その後は制作部長、制作局長、取締役制作局長、取締役常務、代表取締役専務を経て、2001年に役員退任後は常任顧問を経て、同社の経営に顧問として携わった。花園大学客員教授も務めていた。 山内の手法と体裁とイズムはかつての部下であった依田正和、福永喜夫、東浦陸夫、森山浩一、辰野悦央、奥田哲雄、内片輝らに受け継がれた。 ラジオからテレビへ 山内は入社から数年間、ラジオ番組の制作や演出を担当していたが、1965年にテレビの制作局に異動になった途端、上司から連続ドラマの制作を手掛けてくれと懇願された。 当時の朝日放送は『近鉄金曜劇場』『東芝日曜劇場』(TBS系)と言った単発ドラマを数多く手掛けていたが、テレビ界は既に単発物から連続物が主流になる過渡期にあり、VTRの重要性が高まっていた事もあってか、連続ものの制作が殆ど皆無であった朝日放送は人材が明らかに不足していた。そこでラジオのプロデューサーをしていた山内に声が掛かったが、テレビドラマ制作のデビュー作となった『天まであがれ』は主役を予定していながら突如、引退した桑野みゆきの後任を巡り、彼女が所属していた松竹の制作本部長との激しい口論の末、制作本部長に白旗を上げさせる事となった。[1] 若手の藤田尚子と言う人材を起用し、無事に制作に漕ぎ着けた『天まであがれ』は出来栄え、視聴率ともに惨憺たる結果であった。山内はこれを契機に連続ドラマに関する研究を始め、その結果、数多くの大ヒット作を生み出し、後に「テレビドラマの神様」と呼ばれる事になる。 晩年 朝日放送の経営の第一線から退いた後も同社顧問として残り、他局の番組に出演するなど各メディアで幅広く活躍していたが、2014年8月13日に死去した。享年83歳。 死去後は山内本人の強い意思により、公表されず、その死が公表されたのは死去から約4ヶ月後の同年12月8日であった。

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