南朝貴族制研究

联合创作 · 2023-09-26 12:48

【序論より】(抜粋)

本書は、中国の江南で五世紀から六世紀にかけて展開した政治社会体制、すなわち南朝貴族制を取り上げて、その具体相を究明することを通じて、大正時代の内藤湖南以来、わが国の六朝隋唐史の最も重要な研究テーマの一つである「貴族制」とは一体どのようなものであり、中国史上においてどのような意味をもっていたのかを解明しようとするものである。ところでこの「貴族制」は、「貴族制」の下での皇帝権力が貴族層によって大きく掣肘されているという「貴族政治」の側面と、貴族階層が累世高位高官を輩出し、同等の貴族階層の間で通婚することによって、固定化して閉鎖性を強めたという「貴族制社会」の面と、大きくいって両面から論ぜられる傾向があった。この論点は現在に至るまで基本的に継承されている。第二次世界大戦後、一九五〇年代に貴族の官僚的側面を重視する傾向が強まるなかで、い...

【序論より】(抜粋)

本書は、中国の江南で五世紀から六世紀にかけて展開した政治社会体制、すなわち南朝貴族制を取り上げて、その具体相を究明することを通じて、大正時代の内藤湖南以来、わが国の六朝隋唐史の最も重要な研究テーマの一つである「貴族制」とは一体どのようなものであり、中国史上においてどのような意味をもっていたのかを解明しようとするものである。ところでこの「貴族制」は、「貴族制」の下での皇帝権力が貴族層によって大きく掣肘されているという「貴族政治」の側面と、貴族階層が累世高位高官を輩出し、同等の貴族階層の間で通婚することによって、固定化して閉鎖性を強めたという「貴族制社会」の面と、大きくいって両面から論ぜられる傾向があった。この論点は現在に至るまで基本的に継承されている。第二次世界大戦後、一九五〇年代に貴族の官僚的側面を重視する傾向が強まるなかで、いわゆる「寄生官僚」論が提起され、六〇年代から七〇年代にかけてのわが国の六朝貴族制研究においては、貴族を「寄生官僚」とみるか、あるいは共同体の指導者とみるか、という論争が活潑に展開された。この論争については、六朝貴族制論に関する研究史的考察の中で、従来も大きく取り上げられてきたので、詳細はそれらの先行研究に委ねる。私見では、六朝貴族はその生活をほとんど俸禄に依存した寄生官僚ととらえる矢野主税の学説は、越智重明、川勝義雄らの諸氏による批判があり、もはやそのままでは成立しがたいと考えるが、貴族と豪族とを区別し、貴族の官僚的側面を重視すべきであるという提言については、なお傾聴すべき論点を含むと考える。ただ、その官僚としての貴族が、たとえ荘園などの強固な経済的基盤をもたず、その生活を俸禄等の収入に依存していたとしても、そのことをもってただちに貴族を皇帝権力に寄生する官僚という結論を導くのは、あまりにも短絡的に過ぎるのではないだろうか。この点については、中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」における、六朝貴族は官人的形態をとって存在するけれども、「みずからを皇帝の支配を成立せしめるために機能する官僚として実現することに否定的」であるという指摘が非常に示唆的であり、皇帝に官僚として仕えることは、一方的に皇帝に身も心も委ねて服従するということにはならないと考える。他方、貴族の共同体の指導者としての側面、すなわち地域社会における名望家である豪族と、中央朝廷における官僚である貴族との連続面を重視する川勝義雄、谷川道雄の観点は正当なものと考えるが、東晋南朝の北来の僑姓貴族については、地域社会との関係性を見出しがたいこともあって、両氏の研究では、貴族=寄生官僚論を批判しつつも、こと南朝に関する限り、むしろ寄生官僚論を追認する結果に陥っているのではないかとさえ考えられるのである。

両氏の観点を受けついで、南朝の「地域社会に根ざした「望族」的豪族の徳治主義と尚賢主義とに基づく政治的機会均等の要求を掲げた政治的擡頭」に着目した安田二郎は、その一方で、北来の門閥貴族層も危機意識を喚起されて「門地一辺倒から才学中心のあり方への自己革新の必要性を自覚」したことの歴史的意義を評価して、寄生官僚論的理解を克服する方向性を提示しており、この方向性は本書でも継承しなければならない。以上のような観点から、本書では、南朝の官僚としての貴族を主に取り上げて、その政治史上における役割や政治的社会的特権身分のあり方に考察を加えつつ、「貴族制」の内実に迫っていきたい。

川合安,日本东北大学文学部教授。

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