南美川洋子 Yohko Namikawa
1950年11月7日、名古屋市千種区山門町に生まれる。父は名古屋市内で自動車学校を経営していた。 1954〜55年、椙山女学園大学附属幼稚園入園の時期に田島家は山門町から徒歩15分程度の山添町に転居。 1957年、自宅から徒歩5分の名古屋市立田代小学校入学。小学校3年生頃から児童劇団に所属、NHKの番組に出演した。 1963年3月、小学校卒業と同時に田島家は東京の杉並区和田に転居。4月から杉並区立和田中学校に入学、バレーボール部に入部して毎日日が暮れるまで厳しい練習に励んだ。二年時には部長に抜擢された。 1966年4月、私立東京立正高等学校入学。この時期に芸能プロダクションに所属、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」(毎週日曜夜6時放映)の番組内コマーシャルに登場するなどした。 1967年5月、ファッションモデルをしている友達とNET(現在のテレビ朝日)に遊びに行き、その年の4月6日から毎週木曜夜8時から放映されていたドラマ「あゝ同期の桜」のプロデューサーから出演の話をもらう。このことが女優デビューのきっかけになった。「あゝ同期の桜」は海軍飛行予備学生十四期会による遺稿集『あゝ同期の桜・帰らざる青春の手記』をドラマ化したもので、ドラマの中で予備学生たちの憧れの女性役を演じ、本名の「田島薫」で6月1日放映の第9話からレギュラー出演した。ロケは茨城県霞ケ浦で行われ、毎週のように出かけて行ったとのことである。 芸能活動本格的開始に伴い、この時期に堀越学園高校に転校した。 1967年9月2日、大映と専属契約を結び、同4日、永田秀雅副社長から「南美川洋子」の名前をもらう。 「南美川洋子」という芸名は永田秀雅副社長が考案した芸名の中で最良のものと評価されている。 1968年7月27日封切りの「ある女子高校医の記録 妊娠」(弓削太郎監督)でデビュー、準主役であったが、表と裏の顔を持つ校内随一の模範生・田島早苗役を好演、評価を高めた。以後、約2年半の間に"大映ハレンチグループ"による9作品の他に、「千羽鶴」「与太郎戦記」「玄海遊侠伝 破れかぶれ」等、計24作品(一説には26作品)に出演、清純派の美人女優として大映末期のスクリーンを賑わせた。 "大映の性典もの"のなかで清純派のヒロインを演じていたが、実際に堀越学園高校に通う現役女子高生だった。またこの頃、「高校生ブルース」の主役を依頼されるが、大映重役に渡された台本の内容に全裸シーンや男優との絡みがあることにショックを受け、自ら大映本社に赴き、断った。 1970年12月5日公開の「皆殺しのスキャット」(森一生監督)が大映女優として最後の映画出演となった。